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最高裁判所第三小法廷 平成7年(行ツ)215号 判決 1996年3月05日

福島県いわき市平山崎熊ノ宮八〇番地

上告人

志賀創

右訴訟代理人弁護士

鶴見祐策

福島県いわき市平字菱川町六丁目三番地

被上告人

いわき税務署長 庄司幹夫

右当事者間の仙台高等裁判所平成五年(行コ)第九号課税処分取消請求事件について、同裁判所が平成七年七月三一日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立てがあった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人鶴見祐策の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程にも所論の違法は認められない。論旨は、違憲をいう点を含め、独自の見解に立って原審の右判断における法令や解釈適用の誤りをいうか、又は原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する

(裁判長裁判官 可部恒雄 裁判官 園部逸夫 裁判官 大野正男 裁判官 千種秀夫 裁判官 尾崎行信)

(平成七年(行ツ)第二一号 上告人 志賀創)

○ 上告人鶴見祐策の上告理由

第一 憲法・法令違背

一、原判決は、被上告人いわき税務署長が上告人に対して質問しなかった事実を認めながら、本件更正処分は、各申告書、志賀学園に対する源泉所得税調査に係る調査事績、調査に基づく納税告知処分及びこれに対する不服申立ての有無を検討するなどの調査に基づくのであり、上告人に直接質問しなかったことをもって、これが調査によらないものとする理由はないとし、また調査が不充分であったため更正された課税標準ないし税額が不当であった場合は、これを理由として当該更正処分の取り消しをもとめることができると判示している。

しかしながら、国税通則法二四条が「(納税申告書に記載された)課税標準又は税額がその調査したところと異なるときは、その調査により、当該申告書に係る課税標準又は税額等を更正する」と定めている本来の趣旨を誤解するものであり、その適用において憲法に違反するものと言わなければならない。

二、権限ある税務職員による適法な調査に基づかないでなされた更正処分が、同条に違反するものとされ、当該処分の取消事由とされることは言うまでもない(例えば大阪高判昭五一・一・二九シュトイエル一六七号)。そして税務調査が税務職員の法的権限に基づいてなされるかぎり、それが適法なものでなければならないことも当然である。

ところで本件の課税処分は、控訴人の係争年分の所得税についてなされたものである。従って課税処分の前提となるべき税務調査は、控訴人自身に対して行われるべきであった。そして調査は、所得税法二三四条一項一号が定める質問検査権の行使をなしに行われることはあり得ない。同条は「納税の義務がある者」に対する当該職員による質問検査の権限を定めている。この規定は、税務調査に必要な質問検査権の要件を定めたものであるが、それとともに「納税の義務のある者」に不利益な更正処分を行うにあたって前提となる告知(適正な通知)と聴聞(公正な聴聞)の制度的保障の意義をもつものと言うことができる。その意味で税務調査としての質問検査は、課税処分に必要な適正手続を構成するものにほかならない。

三、およそ行政行為が適正手続に則ってなされるべきことは言うまでもない。国民の権利や自由の保障は、それを主張し擁護する手続の保障とあいまってはじめて完全かつ実質的なものとなりうるからである。その憲法上の根拠と法理は、憲法一三条あるいは三一条に求められる(憲法全体の法治主義構造に求める見解もあると言われる)。憲法三一条の趣旨が、刑事手続に限らず、行政手続にも妥当することについては、およそ異説をみない。むしろ行政上の聴聞を憲法三一条の要請として積極的に理解しようとする見解さえも唱えられている。その内容として共通して強調されるのは、いわゆる「告知と聴聞」であって「少なくとも適正な通知と公正な聴聞を欠くことができない」(室井力「現代行政法の原理一勁草書房一一三頁以下参照)「告知と聴聞は、適正手続法理の本質的要素をなし、相手方、第三者等の国民参加のもとに公正な手続を経て処分が決定されるために不可欠の手続である」(「新版行政法(2)」有斐閣一九頁)あるいは「『法の適正な手続』とは主として聴聞を中心とする手続のことである」(「精解行政法上」光文書院三五七頁)と説かれているのである。

ちなみに聴聞その他適切な方法によって相手方に対しその主張と証拠の提出の機会を与えなかったとして事業の免許申請を却下した処分を違法として取り消した最高裁昭和四六年一〇月二八日第一小法廷判決(判例時報六四七号二二頁)の趣旨をも参考に供されるべきであろう。

四、そうだとすると、税務職員による質問検査は、憲法第一二条が、すべての国民が個人として尊重され、国民の権利については立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とするとし、第二九条が財産権の不可侵、第三一条が法定手続の保障を定めているところからも、当該行政処分の相手方に対する事前の告知と聴聞の機会として、その直接的な行使が不可欠のものとして要請されるものと言わざるを得ない。それらの憲法上の諸規定の趣旨等に照らしても、税務調査としての質問調査の誠実な履践こそが、課税庁が納税義務者に対して不利益な課税処分を行うにあたってなすべき当然の債務とされているのである。

五、この点に思いを致すことなく、被上告人が上告人に対する直接の質問検査なしに本件課税処分を行ったことについて、これを安易に容認した原判決には、憲法の前記各条項の解釈において重大な誤りがあり、さらに国税通則法二四条の解釈と適用を甚だしく謝った違法があると断ぜざるを得ないである。そして、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

第二 法令違背・審理不尽

一、原判決は、従業員の「給与の水増し計上により生じた簿外剰余金」を肯認しているが、これは証拠の客観的な評価を誤ったものというほかなく、経験則にも明らかに反する事実の認定と言わざるを得ない。

1 本件の上告人に対する所得税の課税処分は、もとをただせば、社会福祉法人蛍保育園(以下蛍保育園という)法外児(自由契約児)の収入に対する課税問題に発しているのである。

原判決は、蛍保育園が定員以外の法外児をかかえていたこと、そのためにパートタイマーの保母を雇い入れなければならなかったこと、措置費よりも低額の保育料であったこと等については認めながら、学校法人志賀学園(以下志賀学園という)の人件費で賄った点については、「法外児の給食費支出」のメモ(甲第一一号証の一、二)の記載によると保育料は保母の人件費を賄うに十分なことが窺われ、蛍保育園に対する源泉所得税の納税告知処分が確定していることをあわせ考えると、証人志賀トシヱ及び上告人本人らの供述は信用できないと判示している。

2 しかしながら、保育行政の実態をふまえるならば、法外児を抱えて、それに必要な保母を雇わざるを得なかった保育園が、措置費よりも低額の保育料しか保護者から受領しなかった場合に、収支の採算上において成り立つはずのないことは、常識的に考えても明白と言わなければならない。行政当局は実際には保育が必要な児童が措置外に存在することを認めながら、建前としてはそれを認めない立場をとっているのであり、それゆえに定員外児童(法外児)については、措置費という形での援助を全くしないのである。そうだとすれば、行政の要望により法外児の受け入れをさせられた保育園としては、保護者から保育料を徴収する以外に方法はない。しかも、志賀学園では、稼働のために児童の保育を求めてくる保護者の切実な困窮に配慮して、他の同様の保育園に比較しても破格に低額の保育料(ひとり月額一万円、零歳児一万五千円)をもってこれを受け入れてきたのである。

他の保育園では月額三万円であった。そのような困窮した保護者は、殆どが女性であるが、受け入れを求めてくる児童は、いわゆる年長組ではなく、手のかかる乳児など零歳児が多いのである。このような場合、児童の保育に必要な保母の割合も高くなり、それだけ配慮すべき保母の必要数は増えることにならざるを得ない。保母の員数は、零歳児については三名に一人、二歳児までは六名に一人、三歳児以上は二〇名に一人と定められていたのである。

このように考えると原審が、蛍保育園において保母の人件費を賄うに十分な保育料があったと認定されたのは、保育の現場とは全くかけはなれた甚だしい事実誤認というほかないのである。

3 ところで、この保育料だけでは賄い切れない支出を何によって補うかといえば、志賀学園も含めて各職員の協力を得て、その資金拠出にたよるほかないのである。志賀学園としては、それを継続的に行ってきたにすぎない。もとより上告人自身が私財を投入して支えてきたのであるが、到底それでは絶対額が足りないし、いつまでも持続することは困難であった。各職員からの拠出金は、すべて保育園の経営に振り向けられてきたのである。

これらの金額をもって、蛍保育園に対する源泉所得税の納税告知処分の根拠とするのも不当であるが、志賀学園の理事長である上告人に対する賞与と一方的に認定して、その個人所得とこじつけることは、理不尽も甚だしいと言わなければならない。

二、原判決は、「物品あっせん等により生じた簿外剰余金」について園児に対する売り渡しには仕入価格に差益を乗せて設定されているものがあり、仕入代金が志賀学園の資金から支払われているものがあることを理由に、これの存在を肯認しているが、これも明らかに評価を誤ったものと言わざるを得ない。

1 原判決がいう「物品等」は、いずれも志賀学園において幼児教育の目的に伴って取り扱われるものであって、殆どすべてが原価又は原価に所要の経費を加算した程度の価格にすぎないのである。そして「私立幼稚園事務の手引き」(甲第一号証)および「幼稚園が行う各種事業の収益事業の判定について」と題する文書(甲第二号証)等のマニュアルによれば、これらのは収益事業とは区別して補助活動として経理上処理すべきものであり、残額が生じた場合にのみ本会計に繰り入れれば足りるとされている。志賀学園では、このマニュアルに従って、補助活動につき本会計とは別個に現金出納帳(甲第五号証)に記帳を行っている。そこに何らの不合理な点は存しない。

2 なお原判決が採用する推計の基礎となっている児童数は、被上告人の係官青木証人と同人によるメモ(乙第三五、三六号証)に依拠しているが、これ自体が確たる裏付けとはなし難い。児童の実数は、集金原簿と会計伝票から拾い出して高橋恵美子作成の一覧表(甲第一〇号証)に明らかにされているとおりであって、これを排斥すべき根拠は全くない。

原判決には、採証法則を誤った違法があると言うほかない。

三、原判決は、「リード合奏会等に関する簿外剰余金」について、リード合奏会の経理が志賀学園の経理と別個独立に処理されていたことの証拠は上告人の供述以外になく、パンフレットの作成、参加費用等の集金、支払事務等を志賀学園において行っていることが認められるので、この行事が志賀学園の事業の一環として行われていたのであるから、「簿外剰余金」の存在が肯認できるとしているが、この認定は到底承服できない。

1 問題は、この行事が幼児の情操教育に役立つということで毎年催され、志賀学園の園児の多くが参加していることは事実であろう。そのために父母の会と保護者を中心に組織されたリード合奏後援会によって運営されているのである。後援会費は園児ごとに作られた郵便貯金通帳で保管され、後援会費と寄付金をもって賄われている。このことは、昭和五三年度から昭和五五年度の決算は「父母の会」(甲第三号証の一ないし三)の総会資料から明白に裏付けられている。そして余剰金がある場合には、すべて翌年に繰越されている。ちなみに収入は昭和五四年度が三八九万六〇〇〇円、昭和五五年度が四三六万四八〇〇円、昭和五六年度が訂正後、六一三万六〇五〇円である。

2 ところでリード合奏会関係の収入は、参加者の数によって把握できるが、その参加者数は、各年度の「参加のしおり」(甲第一二号証ないし第一四号証)によって明らかにすることができる。

例えば昭和五四年二月一二日に行った第九回では、バス七台を使用して子供一五四名、大人一六六名である(甲第一二号証の三ないし五)。大人のうち職員および役員は二三名で、うち予算計上済みの四名を除くと一九名になる。これらの一九名については本会計に計上されていない。大人のうち職員および役員以外は児童の親である。大人一六六名から二三名を除くと一四三名である。児童だけで参加したのは一五四名から一四三名を除いた一一名になる。そこで収入を計算すると親子一組当たり二万四〇〇〇円、児童一人当たり一万八〇五〇円であるから三六三万〇五五〇円となるのである。

昭和五五年二月一七日に行った第一〇回ではバス配車表は保存されていないが、バスが六台であることは出場経費内訳(甲第一三号証の二)でわかる。数字の訂正があるが、これは翌五六年の出場経費内訳を作成する際に下書に利用したものである。予算に計上された四名のほか役員等五名の氏名のほか通例職員が各車三名ずつ配置されるので一八名が存在していたが、これらの二七名のうち予算に計上されているのは四名のみであるから、その余の二三名についてみると本会計からは関連する支出が記載されていない。表紙に添付された表によると一三七名であるが、その児童が親とともに参加したとしても一組二万六〇〇〇円であるから収入金額は三五六万二〇〇〇円である。

昭和五六年二月一五日に行った第一一回ではバス八台を使用して子供一七六名、大人一九四名である(甲第一四号証の三ないし六)。大人のうち職員および役員は二二名で、これ以外は児童の親であるから、大人一九四名から二二名を除くと一七二名である。児童だけ参加したのは一七六名から一七二名を除いた四名になる。そこで収入を計算すると親子一組当たり二万九二〇〇円、児童一人当たり二万一六五〇円であるから五一〇万九〇〇〇円となる。

3 以上のとおり、これらの収支は父兄が拠出した後援会費等によって賄われており、剰余金は翌年度に繰り越されていることが、客観的な諸資料によって明白にされているのである。そして問題なのは、これらの経理が志賀学園の経理とは区分されて別個に処理されているかどうかであろう。そうだとすれば、これらの収支が、明確に区分されていることが確認される以上、かりにパンフレットの作成や参加費用等の集金、支払い事務等を志賀学園の職員が父兄に代わって事実上行っていたとしても、それゆえに志賀学園による収支であり、同学園の経理であると認定することは不可能であろう。しかも剰余金が生ずる余地もないのである。

リード合奏大会の収支を志賀学園のものとする原判決の判断は、客観的な証拠を無視した誤りをおかしていると言わざるを得ない。

四、原判決は、「中国旅行に関する簿外剰余金」について、上告人が蛍保育園の理事長とともに昭和五四年六月四日から同月二〇日まで中国を旅行をしたことは、志賀学園の業務の遂行上必要なものということはできないと判示している。

しかしながら、この旅行は幼児教育の関係教材を扱っている会社が企画したものであって「幼児教育車訪中団」と銘打って、幼児教育の権威を中心に組織されており、げんに中国各地の幼稚園を訪問してその実際を見学し、中国の教育担当者と意見交換や交流を行っているのであって、これを業務とは全く関係がない観光旅行と断定するのは許されないと言わなければならない。日程の中に観光が含まれていたとしても、当時の中国は他国に対して必ずしも開放的と言える状況ではなく、日本人が各地を旅行する機会は極めて限られていたのであって、企画した側において所要の手続を行う合間に観光のスケジュールを挿入することは、ある意味では不可避であった。そのような行程を組まれること自体が不自然であり旅行目的に照らして無用なものとすることはできない。むしろ幼児教育のテーマがなければ、このような旅行はもともと企画される可能性はなかったのである。原審は、これらの客観的な状況を見誤っているというほかない。

なお原判決は、昭和五五年にも同一会社による同様の中国旅行が催された際には上告人が旅行費用を個人で負担しているとしているが、これは同行させた家族についてのことであって、むしろ上告人としては、志賀学園の研修とは区別して処理していたことを示すものにほかならない。このような点からも、原審の事実認定が不正確であることは明らかである。

五、むすび

その余の争点に対する判断においても原判決の事実の認定には、客観的な証拠に反するか採証法則に背くものがあり、全体的にもとうてい容認できるものではない。民事訴訟法一八五条が定める「証拠調ノ結果ヲ斟酌」したものとは言えないばかりでなく、十分に審理を尽くさなかった違法がある。そのことは同法一九一条が規定する判決に理由を付さないか理由不備の評価を免れるものではない。

よって原判決は主文に影響を及ぼすことが明らかな法令の違背があるので、破棄されるべきである。

以上

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